大門からの道

ほどよく歩いていると水場がある。川近くに獣の穴が見える。
まだこのときは22キロの長さを認識できなかった。写真撮ったり、地図見て暑いといってセーター脱いだり
生えている植物を見たり、愉しかった
一気に山を下りたので、もう後に戻ることはできないと思っていた。

弘法大師が袈裟をかけたという袈裟掛け石。
弘法大師とか行基は、眉唾物の言い伝えばかりある。
100年ぐらい前のことも定かでなくなるのに、古文書はあったとしても、些末的な物まで分かるはずはない
ここでだった、仙人みたいな男が山を登ってきた。
灰色のあごひげを蓄えた偏屈な男である。でもわたしは、反対側から登ってくる人には、全員声かけてみようと決めていた。
「何時に慈尊院出発されましたか」
「9時だそうだ」 先を歩いている妹に話しかける。「速いね。偏屈なおっさんだった」
妹は、それ見ろというような顔をする。「でも、これから出会う人みんなに、私声かける」

一丁ごとに胎蔵界の180尊の梵字を添えて、里程ごとに施主名を刻した石碑が建てられているので、まず道に迷うことはない。
弘法大師が、女人禁制で、入山できなかった母親に慈尊院にあいに行くのに卒塔婆を立てた。それが鎌倉時代に石碑につくりかえられ、現在に至っている。月に9回この道を通ってあいに行くので、九度山と名付けられた。
弘法大師は、一丁ごとに三礼し真言を唱えた。
庶民も三礼しつつ登った。
さしずめ、先の仙人は、三礼しつつ登ったのではないだろう。


藤原氏と刻印された町石をみつけた。
頼道だろうか、道長だろうか、こんなちっぽけな文字なんだろうか
ほかにあるのだろうか、
摂政関白道長が登攀し、後に頼道が登攀したのだろう。
高野山にずいぶんの資金が流れたのだろう。高野山興隆と歴史書に書かれている。

いまは冬眠時期だよね。
眠っていてちょうだい。


押し上げ石
大師の母公が、おまえの作った高野山とやらを、一度見てみたいと入山しょうとしたら雷雨が火の雨となって襲ったので、大師が母をかくまうために持ち上げた石である。そのときという両手の指の跡が石に残っている。

矢立
道路が走っていて、どの方向か、分からなくなる。
慈尊院から登ると、こういうことはないのだろう。
大門からだと、道筋がよく分からなくなる。
ちょうどここで、熊のような大きな女の人が、登ってきた。
毛糸のド派手な多色の帽子、顔はくろにぬので口と目と鼻のとこがぶち切られていて、獣そのもの。
足は、これまた派手な多色の毛糸の足カバー
ヤッケーはピンク…歩くたびに鈴がちゃりんちゃりん鳴る。
「何時から登られたの」
声かけるのよせば、よかったと思うような鬱陶しい女だった。
「朝6時に登った」 信じられない。
「まだこれから、13キロあるよ」
「あなたたち、懐中電灯持っているか?冬の夕暮れは速い、日の明るいうちに山降りれないよ。
意気消沈してしまった。
すぐ後ろに同じぐらいの年代の男の人
この人にも聞く、「慈尊院を9時」
という、これがまともだとおもった。
いまきたみちをふりかえりながら、自分のかかった時間を考えながら、6時には、山を下りられるよ
ここで弁当を調達できればよいと思っていたが、あいにくの休みだった。
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町石道 1

不闕日日之影向 日々の影向ようごうを闕かず
聯れん
柱や壁に一対に掛けられる書画で飾られた長い板。
ト居於高野樹下 居を高野の樹下に卜し
遊神於兜率雲下 神たましいを兜率の雲上に遊ばしめ
不闕日日之影向 日々の影向ようごうを闕かず
検知処処之遺跡 処処の遺跡検知す
頌文じゅもんの後半の二句が、法性寺流という独特の書体で記されてる。

検知処処之遺跡 処処の遺跡検知す
この聯の文字は、大師に深く帰依した後宇多法皇の親筆を写したものとされている。
「大師は高野山の樹下に身を留めながら、心は弥勒菩薩の浄土である
兜率天に遊ばせて日々欠かすことなく縁のある各地に姿を現して、人々のことを見守っている」というほどの意味だろうか
高弟の真然の文か、大師の文か、不明
弘法大師に出会う
岩波新書 川崎一洋 から

高野山の下界の美しさを眺めることのできるのは、ここと女人道のところだけと書かれていたが、女人道のところを
見てもそのような場所は見あたらなかった。前に自動車道があり、危なくて写真など撮りに出られない。
木の隙間からようやく写真撮れるところで、望遠で小さな範囲をとるのが精一杯。

前もそうだが、この長いアプローチが気になり、登ってみたい気がする。
そういった時間があればよいのに

翌朝の朝日浴びる大門。
その前の日、どういうところか見に来たときは雪がぱらついていた。
慈尊院から登ってきた男の人に、それとなく聞いてみる。
熊に逢わなかったかと尋ねると、「熊の鈴」持ってくるの忘れたが、いるねという話だった。
それから30分後、別の男の人が下っていった。
体中熊の鈴を鳴らしながら・・・
熊の鈴、必要なようなのでコンビニで売っているかどうか探しに行くことにした。
そういうもの売ってなかった。

勤行が終わり、僧侶に少しだけ質問したら、話が長くなり、ご飯食べる時間に遅れた。
昼食抜きかもしれないと思い、わたしは、宿坊で出されたご飯を一粒残さず食べ、すぐに出発した。
これから、恥ずかしい珍道中が始まる。
くだらないことばかりで、長いこと引っ張ることになるので、適当に流してほしいとおもう。

熊に注意と書かれた立て看を無視し、降りてしまった。
写真家星野さんのことを書いた記事が脳裏を走る。
あれは、ひぐまで、ツキノワグマではないが、テントから熊に咥えられた姿が浮かぶ。
冬だから歩ける。いまの時期でなければ歩けない。
妹には、そのはなし内緒だ。

歩き出すと、暑いので、中に着ている服を脱ぐ。

最初の町石をみ、町石一本、二本と写真撮りながら、歩く。

宿

はじめに九度山で宿を取り、天野と真田庵に行きたかったが、いくら宿を探してもとれない。
天野に一軒ある。そこでもよかったが、どうも気が進まない。
それで、一気に高野山に登り、そこで宿を取る方が面倒でないように思えた。
宿坊は利便性を考え金剛峯寺の隣の総持院に決めた。
春は宿坊とるのに随分苦労した。
高野山ナンバーワンの人気の一条院も取れそう。
真田幸村のところにも行きたいので蓮華上院も気になった。
どうしても前泊まった遍照光院の比較になる。
遍照光院は足利と今川の家紋だった。

ついてすぐ応接間で抹茶の接待。

写真撮ってもよいですか、あっ私ですか
うわ、モデルになっていただけたらうれしいですけれど、
さっと逃げられた。
これなにかわかりますか、お坊さんが白い液体を流し込む。
豆乳、にやっと笑み
白い着物に黒いタスキ、エプロン。副住職のような年齢。
若い人も全員でまかないに出ている。
食事は屏風で個室となって区切られているので隣の様子はわからない。

着席したときに出ていた付け出しのようなもの。
お寺ではなんというのだろう。
この葉っぱ何ですか、覚えていたけれど忘れたと、にこにこ。

てんぷ~らと、陽気に運んでくる。
くわい、ふきのとう、ゴボウの詰め物、
これに大根の天ぷらがあった。
遍照光院は、天ぷらは冷たくカチカチだった。
何もかも手作り朝から、作るの大変なんです。と、わらう。
遍照光院の食事は、ものすごい量で、拍子抜けした。


もう一品後から、デザートとしてミカンゼリーが来た。
これも手作りだとわかる。
「これで最後です。デザートです」と、陽気に笑みを浮かべる。

変なところにヨクチョウつけて、つけ~ものと、運んでくる。

朝の食事
出席したが勤行は強制ではない。
部屋はたくさんの間があり、ベッドルームもある。
お風呂も二人は十分入れるトイレもかなり広い。床暖房あり、
縁側床の間の素晴らしい部屋だった。
遍照光院は、用意していたけれど、勤行にたたき起こしに来た。
部屋は普通の個室だった。
バスタオルがなく、バスタオルあるのかと、行く前に妹が総持院にたずね、わらわれたそうだ。
朝帰るときに、このお坊さん、
にこにこ挨拶して、黒の革ジャン着てバイクにまたがり、どこかに消え去った。とても同じ人に思えない。
まかないの姿、勤行の姿。どうなっているんだろう。
高野山

K3DⅡwith★ DA16-50
本当は雪の高野山を見たかった。
こんなこと本気で妹に言えば怒るかもしれない。
湿度が100パーセント近く、そして快晴ってどういう天気なのだろう。
傘持って行く?
そんなの持って行かないという。湿気90パーセントって、雪のことじゃないか。
朝の霧がひどいので、その湿気が凍って、山道は滑るかもしれないと、宿坊のお坊さんが仰る。
アイゼンを入れておこう。

東塔
春5月の6日に訪ねたときは、シャクナゲが満開で、手桶のようなものが両方の参道に並べられていて、
人も多く、御影堂で得度式のようなものが行われていた。
いまはすっかり静まりかえり本来の高野山の姿に戻っているのだろう。
西塔は、空海の「御図記」に基づき建立された。現在の建物は天保5年。
東塔は白河天皇勅願で安置仏は、創建当時の尊像
きらびやかな西塔より、落ち着いた東塔の方に魅力を感じる。

三昧堂と西行桜
本尊
金剛界大日如来
延長6年(928)当山第六世座主済高師が創建せられたもので座主常に理趣三昧を修せられていたので此の名がある。
その後西行法師これに修復を加え常に行法をされていたので西行堂ともいう。
西行桜
久安5年(1149)32歳頃から30年間、高野山に草庵を結びました。
高野山では大会堂と三昧堂の造営、移築に総指揮として尽力されました。
三昧堂移築に際し、西行法師によりお手植えされたのが西行桜の由来です。

西塔の中に入り、外にでると雪が激しくなってきた。
11時頃バスに乗るときから雪がぱらつきはじめて、1時雪が本降りになってきた。
傘とか帽子で覆わなければならなくなった。
中門。 この近くにこの日泊まる宿坊があるので、寄ろうと思ったが入れなかった。

コウヤマキ
春、実生の苗が売られていたので、買いたかったが重たいのでやめた。
今回は無性にほしくなり、買おうと思っていたが見つからなかった。
店をたたき起こして買うほどでもなかった。

妹が高野山大学を見に行きたいというので・・・
雪が舞い散る中訪ねた中は鍵がかかっていた。
高校時代、「高野山大学に行きたい」という同級生がいて、どういう大学か見てみたかったという。
その子、お寺の息子でもなく、
教師に「おまえ、よく考えた方がいいよ」
といわれていたそうだ。そしてその後、その子が、高野山大学に入ったかどうかは、
知らないという。
私は、高野山大学に行った、寺に縁のない近所の不動寺の僧とダブった。

金剛峯寺
もともと高野山は全山が金剛峯寺と呼ばれていた。
明治維新の太政官達しにより、学問に専念する青巌寺とそれに隣接する興山寺を統合して、総本山金剛峯寺と名付けられた。
金剛峯寺の主殿は青巌寺である。
豊臣秀吉の母君の菩提のために1593年に建立した。
写真は入ってすぐの柳の間の廊下。
秀次が自害させられた部屋。ちょうど女の人がいるところの座敷。
狭い部屋だった。

金剛峯寺には大広間があり、お茶とお菓子の接待がある。

幡龍庭
桜や楓、石楠花が見事だけれど、何もない残雪の残った庭もよいものだ。

ここまで写真を入れたら、次が入らなくなった。
新しい投稿も試みたが、写真が3枚しか入らなかった。
ブログ続けられているのだろうか、



